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BOOK REVIEW vol.2
今月の本 vol.2:カウンターカルチャーとヒップホップ
反骨心を持ったカウンターとしての存在とリッチな消費者となることへの無矛盾としての90s’ヒップホップとファッション。
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『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター(NTT出版)
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ハニカム7月のテーマは、 “ファッションと90s’ヒップホップ/R&Bリバイバル”。スキニーパンツを履き、ハイブランドをジャストサイズで着こなすラッパーA$AP ROCKEYのGUESSとのコラボレーションや、90s’ヒップホップをモチーフに2017AWを発表したマーク・ジェイコブス、他にも90年代に愛されたNAUTICAやTimberland、TOMMY、POLO SPORT、FILA、Kappaといったブランドの再登場といった背景がテーマの裏にはあるそうだ。
そのテーマを聞いた少し後、「Balenciaga がNYのヒップホップレーベル Ruff Ryders のロゴデザインを盗用?」という記事をネットで目にした。どんな意図でデザインが行われたのか真偽はわからないけれど、数年前にSupremeがRuff Rydersとのコラボでロゴを大きくあしらったデザインをしていたことを思うといろいろムズムズしてくる。そのSupremeはLuis Vuittonとのコラボレーションが話題沸騰中。さらにLuis Vuittonは、キム・ジョーンズのデザインにインスピレーションを受けたDrakeが新曲を制作し、ショーを発表の場として使うというおもしろい手法を今シーズン展開した。Drakeの曲を聞きたければショーを見ざるを得ないわけで、誰でもショーが見れる時代のいいコラボ。
ファッションと音楽はさまざまな形で影響をしあってきた。互いの表現にとって欠かせない要素ともいえる。ビートルズもセックスピストルズもカート・コバーンも、あの音楽であの格好だったから反逆/反抗の象徴になったのであろうし、ずっとスウェットの上下だったらどうなっていただろうか。ディスコや初期テクノから派生し、楽器ではなくターンテーブルという再生装置によって始まったヒップホップも、高い貧困率と犯罪率の街ブロンクスで自分を表現しサバイブする反骨の方法であった。現状に反抗し、現状を超えようとするカウンターカルチャーとして、時代の新しい音とスタイル、そして社会的ムーブメントをつくってきた音楽とファッションの歴史。
時代の支配的な価値観に抗うものであるカウンターカルチャーは、生まれては消え、姿を変えて復活するということを何度も繰り返してきた。『反逆の神話』は、国家や資本主義、消費主義のような体制やマスのルールを否定してきた左派的カウンターカルチャーの実効性を批判している。カウンターカルチャーは結局、思い描いた変革を起こすことができておらず、消費文化のサイクルの中に組み込まれ、再生産されてきただけだと。ジャーナリストのナオミ・クラインが、ナイキやギャップ、スタパなどの多国籍企業やグローバリズムへの反抗運動等について書いた『ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情』を強く批判しながら、ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』やジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』、ハーバート・マルクーゼなどを参照し、カウンターカルチャーの歴史を紐解いて社会との関わりの構造を明らかにしていく。
大衆社会批判と消費主義批判を主張するようなカウンターカルチャーは、力をまったく持たないどころか、逆に現代消費社会の推進力になってすらいるという主張は、ファッションやサブカルチャーと呼ばれるジャンルが好きで生きてきた私のような人間にはなかなかシンドい主張だが、言われみれば確かな実感を伴う現実でもある。反抗のアイコンは、たいていTシャツにされ大量に“ファッションとして”売られてきた。「消費主義は僕らの見方では、順応主義の追求の産物ではなく、また洗脳のシステムでもない。それはむしろ妬みを起こさせるような差異の探求や、群衆のなかで目立つとか自分が負け犬ではないと証明する方便に駆り立てられた競争的消費の産物」であると言う。自分は価値をわかっている、自分は他とは違うという競争的消費は、ファッション文化の本質でもある。
ヒップホップは貧しい環境や被差別の経験等を乗り越える対象として、社会や政治、差別する人間に異を唱えてきた。ラッパーたちは底辺から成り上がり成功することとリッチ/セレブリティになることへのズレがなく、積極的な消費の主体になることを肯定的に捉え、ファッションブランドの運営なども行っている。それはまだ差別され続ける後ろの世代に夢を与えるという見方もできるが、派手なアクセサリーをこれ見よがしに着けてみせる“blingbling”が、いまなおヒップホップというジャンルのイメージとしてまだ広く流布している(ギャングスタ・ラップの代表N.W.Aと同じコンプトン出身のケンドリック・ラマーは、ギャングを演じ、ギャングになることが生きる手段でもあったラップの世界にあって、『Good Kid M.a.a.d City』というアルバムのタイトル通り、ドラッグを使わず、犯罪歴もない“いい”ラッパーとして、金、ドラッグ、セックスを超えて現状をよりよい社会へという姿勢を見せている)。
反抗の象徴、若い世代のエネルギーの象徴としてのラッパーは、カウンターアイコンでありながら消費を否定しない存在になりうる。衒示的消費、競争的消費カルチャーであるファッションにとって、その相性の良さは貴重だ。『反逆の神話』の冒頭でも取り上げられるように、カート・コバーンはCDが売れ、受け入れられていくことと自分とのズレに苦しんだ。一方でファレル・ウィリアムスはシャネルのモデルにもなり、カニエ・ウェストはルイ・ヴィトンとコラボし、ジバンシィを愛用、カニエとA$AP ROCKEYはアレキサンダー・ワンのモデルにもなった。ブラックミュージックの1ジャンルとして聞かれていたものから、世界中のランキング上位にいる音楽ジャンルとして定着したラップ/ヒップホップは、ファッションの世界に入り込んだ時、反抗のイメージと共に成り上がりと消費も連動する。ところがそうしたA$APやカニエ、ファレルがハイブランドを着れば着るほど、そのファッションはヒップホップという音楽ジャンルのわかりやすい表象ではなくなる。今後ヒップホップという言葉とファッションのイメージがどうなっていくのかはわからないが、ヒップホップがヒップホップらしいファッションであった90年代のリバイバルは、ファッション性、カウンター性、SNSや消費文化との親和性など、どれを取ってもモードにとって願ってもないものなのではないだろうか。そんな中、実効性のない反抗のポーズとしての文化的批判ではなく、制度を具体的に変えていく政治的批判がそこに含まれていなくてはいけないという著者の主張は、一度耳を傾けてみるべきだと思う。