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BOOK REVIEW vol.6

今月の本 vol.6:河原温作品が似合うのは、和室か洋室か。

(ほぼ)同じ作品が違う空間に飾られた時、その絵はどう見えるのか。もしくはインテリアと絵の関係性について。

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On Kawara Date Painting』Candida Hofer(Walther Konig)
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散らかる家と欲しい天高
 狭い家が散らかっている。適切に畳まれず収納されない服や日々増え続ける本、そして子どものためのたくさんのいろいろ。どれだけ片付けても一瞬にして秩序を乱す、モンスター二歳児がいる家庭にそうやすやすと平穏は訪れない。さらに今日、(値段の高い)ちくま学芸文庫だけを選び、猫(確信犯)がカバーの背を縦にきれいに真っ二つにしていた。見事な切り口。
そんな状況のため、我が家にアート作品を飾るということは容易なことではない。先日公開された義父を追ったドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』で映された義父邸には、ウォーホールによる巨大な坂本龍一自画像があるのだが、欧米の天高のあるアパートメントだからこそ飾れて、映えるサイズであり、日本であのサイズを飾ることは一般的には無理だろう。自分の家だったら口から下の部分くらいしかきっと玄関を通らない。

河原温のDate Paintingとベッヒャー派の相性は……
 この本は、2015年に亡くなったアーティスト河原温の最も有名なシリーズ絵画“Today”シリーズ、もしくは“Date Painting”と呼ばれる作品のコレクターたちを訪ね歩き、作品が飾られた空間を撮った写真集だ。写真を撮ったケルン在住のドイツ人写真家カンディダ・ヘーファー(Candida Hofer/1944年〜)は、1976年から82年までデュッセルドルフ美術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャー教授夫妻に師事し、写真を学んだ“ベッヒャー派”のひとり。ベッヒャーが標榜した“タイポロジー”という手法は、“共通する類型によって収集されたイメージ群を提示することで、記号化されたイメージ相互の意味的差異を抽出する形式的な手段であり、いわば、ミニマリズム的な同質なるものの反復によって、逆説的に差異を見出すことにその主眼がある”と言われるもので、つまり同種の対象を被写体として一定のルール(真正面からの正対撮影や水平垂直、撮影時の天候や光のルールなどなど)で撮影して、それらの差異や共通を見出す方法論であり、主観を排した記録的な絵となることが多い。
 カンディダ・ヘーファーは、タイポロジーをそのまま作品の手法とはしていない。ただ図書館や劇場、宮廷など公共性が高く、荘厳で権威性のある空間を、自然光のみで正面からシンメトリーに捉えるというスタイルは、アンドレアス・グルスキーやトーマス・ルフ、アクセル・ヒュッテなど、他のベッヒャーの教え子に比べて直接的に方法論を援用しているようにも見える。

誰かのなんでもないある1日は、誰かの特別な1日であることによる動機づけ
 河原温の「Date Painting」が飾られるプライベートな空間を撮影したこの写真集は、2004年5月4日、地元ケルンのコレクターから撮影を開始し、2007年8月15日のフランスを最後とする3年超に渡るプロジェクトの成果で、カンディダ・ヘーファーがこれまで作品として発表してきた被写体とは、そもそもからして質が違っている。まずどうしたって空間が狭い。引いて作品と正対するのが容易ではない場所もたくさんあったはずだ。
 日本を離れ、ニューヨークを拠点に世界を移動した河原温は、1966年1月4日に“Date Painting”をはじめて以来、自宅でも旅先でも数種類の決まったサイズのキャンバスに、年と月と日を描き続けた。その日中に描き終わらなければ廃棄された、ある日そのものである日付の絵画はその土地の言葉で月表記が描かれ(日本語など表記によってエスペラント語が使われる)、描いた土地で発行されているその日の新聞を内側に貼った箱が付属する。数千にもなる日付の絵は、様々なコレクターの手に渡った。買うきっかけは、河原温の作品であるということだけでなく、描かれたその日が購入者にとって誕生日等何かの特別な日である場合も多く、河原温だけの個人的な記録であったはずの1日が誰かの大切な1日となって部屋に存在することもあり得るという、当然なのだけれど不思議な転換が、作品を買って、飾りたいという直接的な欲望と繋がっている。

日本の家にアート作品が飾られるということ
 日付が書かれただけのミニマルな作品は、小さい作品であるにもかかわらずどの部屋にあっても目を引いてくる。カンディダ・ヘーファーがそう撮ったということと、濃い地の色に白抜きの文字というそもそもの目立ちやすさはもちろんなのだが、作品が飾られたインテリアを空間として覗いた時、“Date Painting”だけが独立してそっと壁に掛けられていることが多い。しかも多くの空間が作品同様にミニマルで整理が行き届いている(撮影されるから片付けたのだろうが、きっと元からきれいであろうことも推察される)。そんな中おもしろいのが日本人コレクターが作品を飾る空間だ。11人(会社や団体含む)のコレクターが出てくるのだが、部屋にはリモコンやぬいぐるみ、書類が一緒に写っており、蛍光灯がビカっと光り、額を吊るワイヤーが露出し、作品が斜めになっていたりもする。欧米では整えられた飾るための余裕が感じられたのだが、日本では生活する部屋のなかにまるでカレンダーか時計のようにしれっと飾られている。正しい表現ではないことを承知で言うが、なんというか地元感がある(もちろんどれもきれいに飾られていて、コレクター然と飾られているものもある)。

 以前、カンディダ・ヘーファーの個展が日本で行われた際のハフィントンポストのインタビューで彼女は、日本の建築や空間について、こう発言している

 ヨーロッパや、その影響を受けて文化を形成したアメリカ大陸などではこういった公共の建築物はパワーの象徴として、政治的、宗教的、もしくは経済的な意図とともに造られてきました。これらの建築物の多くはシンメトリーな構造が特徴ですが、日本にある建造物でそれに近しきものといえば、公園や神社といったところでしょうか。中国の影響を受けているお寺も、シンメトリーな構造が特徴ですね。

 この数年、日本には毎年足を伸ばしていますが、海外との建築物の違いに強い印象を受けるとともに、困惑している一面もあります。もちろん日本人建築家として、西洋の様式に乗っ取った図書館や博物館を手がける方も多くいますが、どちらかというと有機的なイメージを連想させる、作為的ではない自然なフォルムが広く好まれる日本で、自分の撮りたい被写体が見つからず窮屈な思いをしたこともあります。

 しかし最近では、特にある博物館の要望で、河原温(かわら・おん)氏の個人所有作品を撮影したことをきっかけに、これまでの自分のスタイルとは異なるアプローチで日本の建築物と向き合うようになりました。河原氏の作品は日本中に点在しており、それらを探し求めて日本を旅する機会が増えました。

 この時撮影された写真は全て一つの本として出版されましたが、これを境に自分の写真に対するアプローチにも変化がありました。建築そのものに加え、それらの狭間に存在するディティールに目を置くということです。

 カンディダ・ヘーファーが体験した日本の空間は、アートを飾る環境としてどのように映ったのだろうか。“(建築の)狭間に存在するディティール”とは、彼女が作品から排除してきたように見える属人的な個性や痕跡のことなのか。

Date Paintingだからこそ抽出できた展示空間としてのインテリアの共通と差異
 日本の住宅では、大きな家は柱と柱の間を襖という可変の壁で部屋を仕切り、小さな家はそもそも天高が低く、廊下は細い。壁があっても引いて絵を鑑賞する空間的余裕はあまりない。余白たっぷりの壁と空間いうあり方自体が少なく、壁に絵を飾るようにはあまり作られていない。置くもの、掛けるもの(巻いて小さくなったりするもの)といったムーバルなものを身近な収集物として扱ってきた日本。小さな居住空間にアート作品を飾ることの難しさはこれまでもいろいろと言われてきたけれど、(描かれた日付は違えどほぼ)同じ作品が違う空間で飾られている姿を目にすると、ある種のタイポロジー作品として空間と絵画の関係の差異や共通を浮かび上がらせてくれる、ドキュメントととしても貴重な写真集になっている。日付順、撮影で回った順番どおりのページネーションで、目次もまえがきも寄稿もない、ただひたすらに河原温作品のある空間が展開するミニマルな構成ながら、実は相当な情報量が詰まっている。