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BOOK REVIEW vol.11

今月の本 vol.11: 縦に伸びた街は、ゆるやかに人を幽閉する

マイパブリックとグランドレベル』田中元子(晶文社)

 この連載の1回目でコム デ ギャルソンの川久保玲さんに触れて、川久保さんは街でいま何が起きているか、何が着られているかを見るために誰よりも渋谷の街を歩いているらしいと書いた。冒頭のツイートを見てそのことを思い出していた。

 生活全般のことが外に出ずともネット上で完結するようになってきたけれど、人がなぜ服を何着も買うかと言えばやはり外に出て誰かの視線に晒されるからで、AR(拡張現実)は服の可能性をバーチャルとリアリティの間で拡張するかもしれないが、誰に見られる訳ではないVR(仮想現実)はファッションという概念を異なるものへと変える可能性がある。というか生身の人間には、流行やオシャレ、自己表現という意味でのファッションが必要ではなくなるかもしれない。それは公私という両義性を持っていたファッションがパブリック性をなくし、完璧にプライベートなものになるということであり、ファッションの密室化で不可視化なのではないか。それでは川久保さんが散歩をやめてしまう。

 2027年に最終工事を終えて完成するらしい渋谷駅の再開発。いま10代の子たちは工事をしている渋谷しか知らないだろうし、使いにくさマックスの渋谷駅しか利用できていないだろう。水平方向ではなく垂直方向の開発を進め、ストリートの街だった渋谷は駅中心の街へと変わりつつある。一方で公園通りを発明し、ストリートと接続して文化を生み出してきたパルコ(パルコはイタリア語で公園の意)の建て替えが2019年に完成する。改めて渋谷の街を地理的に拡張できるのかどうか楽しみでもある。というのも駅中心の開発のように垂直方向に建物を伸ばし、その建物の中やビル同士を連絡通路で繋いで回遊性を高めるというのは、VRほどではないが、人をゆるやかに空間に幽閉し、自分以外の世界や他者との接点を減らしてしまうのではないか。だからこそ、通りに対して開いてきたパルコが、それにどう答えるのかが楽しみなのだ。完成予想図を見る限り1階のエントランス前に、以前と同程度のスペースはありそうだけど、どんなアクティビティが促されるのだろうか。

http://www.parco.co.jp/business/shoppingcomplex/shibuyaparco.php

 『マイパブリックとグランドレベル』は、そうした駅中心の開発とは逆、水平方向の街のあり方を考えるためにとても示唆的な一冊だ。著者の田中元子さんは、クリエイティブユニットmosakiとして、建築やデザインなどの専門分野と一般の人々を繋ぐ、建築コミュニケーター、ライターとして活躍している。自分の事務所にバーカウンターを設置して建築家をイメージした建築カクテルを無料で提供する(毒味させる)ことに始まり、路上で無料のコーヒーをふるまうパーソナル屋台に展開。その屋台から生まれる個人がつくる私設公共「マイパブリック」を提唱するに至るのだが、初めて耳にする「マイパブリック」とはまた矛盾にも聞こえる言葉でもある。

 シェアという概念が広がり広く受け入れられている一方で、“みんなのもの”であるはずの公共的な空間は、どんどん禁止事項が増える公園やどこにあってどう利用していいのかわかりにくい施設や空間として接することが多い。田中さんは、希薄になってしまった公共との関係を取り戻すべく「あればいいなと思う公共は、自分で勝手に作ればいい」と考え、“マイ”パブリックを実行に移していく。

 パブリックを公共空間や施設のことではなく、「公共的である状況」と田中さんは考えている。「公共的である状況」とは、第三者との接触可能性がある“共有性”、第三者にとって「自分の居場所」である“実践性”、第三者どうしが互いの存在を許容し合える”関係性“を兼ね備えたものであり、マイパブリックは「ひととき知らないひとがわたしの元に行き交うことを許容すること、むしろ歓びとすること、その結果できた状況や場のこと」である。「マイパブリックを通して発生する第三者との接触とはつまり、社会との直接的な接触にほかならないと思う。社会と呼ばれるもののうち、最も身近な一端は、他者という存在」であり、マイパブリックには次世代のしあわせへの大きな可能性を含んでいるという。そして、マイパブリックが「最も効果的かつ有意義に実現できる」のが、グランドレベル、つまりマンションやオフィスビル、大小様々な商業や公共施設などあらゆる建物の1階に当たる階であり、公園や駐車場、歩道などのパブリックスペースであり、街に存在する地面とそこから繋がる風景においてなのだ。

 グランドレベルで行われるべき様々な可能性を田中さんは提案していく。田中さんが実践したパーソナル屋台としてのフリーのコーヒー屋さんもそのひとつであり、ニューヨークシティが行ったようなベンチをたくさん設置することもそう、タワーマンションの一階にあるやたらゴージャスなロビースペースの活用やちょっとしたスキマで構わないから遊休地を私設公園として開放すること、公園の利用の幅を広げることもそうだ。そして、都心のビルがより高く建物を建てるべく、敷地境界から建物をセットバックさせて足元にスペースをつくる制度によって生まれた、公開空地という空間もそのひとつ。我々もよく目にして、人によっては使ったこともあるその空間をただの制度利用のための便宜的な場所とするのではなく、有意義に解放し活用すれば、風景は一変するのだ。

 これはまさに先程のパルコのことであり、また、アパレルのテナントが水平的な路上(路面店)から、垂直的な商業施設の上のフロア内に収まっていく駅中心のあり方に対し、どんな可能性があるかを考える話でもある。ある施設や建物の中は持ち主や管理者がおり、そこでの振る舞いは“お客さま同士”とテナントに最適化されるかたちで制限がかかる。勝手に座ってもいけないし、おそらく大きな声で歌うこともNGで、飲食可能なエリアも制限される。一方で地面/ストリートは、法や周囲への影響は考慮しなければいけないが基本的にはあらゆる振る舞いが自由だ。ファッションは単に服装のことを言うのではなく、その生き方や考え、行動までを反映するものであるとするなら、服を着た時の振る舞いの自由度が確保されていなければ、ファッションの自由度にも無意識のストッパーが働いてしまうかも知れない。

 さらに、ある趣味や年齢層、社会的、経済的な階層ごとにエリア化された商業ビルでは、異質な他者と触れ合い、お互いの存在を認識し合う機会はどんどん減っていく。もちろんネットで完結する環境に比べれば不意の出会いの可能性は高いけれど、自分が知らない、想像できない、許容できないものを目にすることはかなり少ない。例えば竹の子族へのリスペクトから生まれたケケノコ族のような異質な存在には出会えないのだ。

 SPBSの記事から話題となったケケノコ族は、80年代に原宿エリアの歩行者天国上で生まれた派手なファッションにリーゼントでディスコを踊る竹の子族に憧れ、アーティストのひさつねあゆみさんがオマージュとして活動を開始したものだ。主な活動はダンスと竹下通りなどを踊って歩くケケノコの闊歩。竹の子族の由来でもある「ブティック竹の子」でバイトをしながら竹の子族研究をし、活動を開始するという正統な末裔感すらあるが、彼女たちには路上に個性的な人が溢れるということへの飢えがある。

「原宿ファッションに身を包んだ人たちが集うホコ天みたいな空間をもう一度つくりたいと思ったんです。ストリートファッション誌『Zipper』もなくなったし、ここに行ったら面白いファッションをした人たちが集まってる、みたいな場所もないし、中学校時代、ホコ天で『FRUiTS』の人にスナップされるのに憧れていたんですけど、私が上京するころには、ホコ天自体がなくなっていて、でも、GAP前があったんです、私の時代は。今はそういうのもなくなって。それを復活させたいんです」

 インスタの「#今日のコーデ」でもアプリのWEARでもなく、ファッションという文脈で繋がり、見たい人だけが見るのではなく、不意の見る見られるという関係が成立するパブリックな場に自らを晒すこと。ケケノコ族たちはそこに自分たちのパブリックがなかった(なくなっていた)からこそ、ストリートや公園にマイパブリックを立ち上げたのだ。同じようなマイパブリックが、賃料を払った誰かの場所であるビルの中に出てくる気配は今のところない。高層の商業ビルに幽閉されるのでも、ストリートでも、ネット上でもない、ファッションの新しいパブリックな場はどこにあるのか。川久保さんに「ここ行ったらいいですよ」と勧められる場所は、いま東京にどこにあるだろうか。