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BOOK REVIEW vol.14

今月の本 vol.14:カンコツダッタイ – 大きな表現の歴史の中で

ホンマタカシの換骨奪胎 やってみてわかった! 最新映像リテラシー入門』ホンマタカシ(新潮社)

 真似ることから価値を再創造、アップデートする「換骨奪胎」という言葉がある。グーグルによれば、“他人の詩文の語句や構想をうまく利用し、その着想・形式をまねながら、自分の作としても(独自の)価値があるものに作ること”である。

 PCやスマホをはじめ、デジタルカメラやビデオカメラ、ドローンなどなど、誰しもが同じ表現のツールを使えるようになり、メディアや媒体にはメジャーもマイナーもプロも素人も共存することが可能になっている。バズったツイートをパクって、RTやファボしてもらってニヤニヤしているパクツイなんて、どれがオリジナルなのかもはやわからないし、権利や倫理の話を置いておけば、誰が言ってたのかはもはやどうでもよかったりもする(まったくもっていいことじゃないし、行為事態はとてもつまらないことだと思う)。

 その換骨奪胎という言葉をタイトルにした、写真家ホンマタカシの映像論集『ホンマタカシの換骨奪胎 やってみてわかった! 最新映像リテラシー入門』の「はじめに」で、映像表現を理解し、アップデートするために換骨奪胎していくことをこう書いている。

パクリとは要するに、ただ人の真似をして、
そこで終わってしまっているものです。
(中略)
その作品がどんな構造をしているのか?
もっというと、その作品がどんな表現の大きな流れの中に位置しているのか?
調べる必要があります。
ヒトツの表現は突然、天才のもとに空からふってくるわけではありません。
脈々と続く人間の営為の大きな流れの中にあるのです。
しっかりと先人の作品を受け取って、それを自分なりに、そして今日的に少しでも前進させて、
また次の世代にパスしなければならないのです。

 例えば一章目では、カメラの起源であるカメラオブスクラを、自宅の部屋をピンホール・ルーム(カメラ)にして写真を撮った山中信夫に範をとって、ピンホール写真を実践している。小さな穴の開いたボタンをピンホールとして窓に貼り、周囲を黒いケント紙で目張りし遮光。真っ暗闇から、徐々に倒立した外の風景が壁に映し出され、長い時間をかけてフィルムに像が定着していく。カメラ発明以前の時代では、画家が模写の道具として使っていたこの機構は、壁に映りはするが定着はしていない、つまり写真ではなくそれは映像であった。考えてみれば当然のことなのだが、なんだかそれがとても新鮮なことに感じた。

 決定的瞬間のない持続する時間の写真を制作するホンマタカシが第一回にこれを持ってきたことの必然性は、単に起源であるからではなく、そこにもあったのかもしれない。

 エドワード・マイブリッジやマレーの連続写真からパフォーマンスグループであるコンタクトゴンゾの連続写真へ。映画を発明したリュミエール兄弟による映像が、意図したものとは別に自動的に写し込んでしまうものを孕んでいる映像の自生性から、写真や映像の偶然や無意識の表現へ。ルイジ・ギッリの窓=フレーミングという話から、写真における窓の存在、そしてカメラのフレーミングと窓というフレームの二重構造へ。さらにその二重性から物質とイメージ、現実とフィクションという写真を語る上で不可避なことへの問題意識へ。

 様々な先人の表現を頭と体で感じ、分解し、理解しながら、そこにある可能性や課題、現代性を加えていま現在のホンマタカシの表現へと転換することを繰り返していく。多くは連載時(2013年7月号〜2017年3月号)にホンマが発表してきた作品たちの解題という側面もこの本は担っている。見るということは一体何なのか。それを“わかる”とは何なのか。換骨奪胎し自らの表現に落とし込むことで、見ることを、組み立て可能な部分と全体として示してくれてた。

 ファッションの世界でも日々換骨奪胎は行われている。もちろんパクリも。

 キム・ジョーンズからヴァージル・アブローへと引き継がれたルイ・ヴィトンとクリス・ヴァン・アッシュからキム・ジョーンズへと引き継がれたディオール・オム。ふたつのファーストシーズン、2019SSコレクションが先日お披露目された。

 引き継ぐ、と書いたが、ブランドの新しいデザイナーに就任するということは、その歴史を継ぐことでもある。今という時代に対して、クリエイティビティの歴史の中から何をピックアップし、何をアップデートしていくのか、そして何をあえて使わないのか。

 ヴァージル・アブローは、ルイ・ヴィトンがファッションではなく“マルティエ=鞄職人”のブランドから始まっていることに目を向けた。バッグをハーネスのように身に着けたウェアとアクセサリーの両義性を備えたアイテムは、アクセサリーをウェアに変換する“アクセソモルフォシス”というアイディアで作られ、プロダクト的なマインドも備えた建築の出自を活かしたクリエーション。一方でキム・ジョーンズが、今回のコレクションで参照したのは、ディオールのウィメンズと創設者ムッシュ・ディオールのアーカイブのみ。前任のクリス・ヴァン・アッシュもその前のディオール・オムのブランドを確立したエディ・スリマンも参考にすることはなかったという。前任二人が力を入れていたウエストを強調する“バー ジャケット”は作られず、ディオールが愛したピンクの色とストリート感のあるリラックスしたサイズ感やラインを、クチュールメゾンのクラフトマンシップで美しく仕上げた。

 しかしよくよく考えるとこれは換骨奪胎なのだろうか。キム・ジョーンズは(メンズは敢えて見ずに)メゾンの歴史を参照し、歴史的に磨かれてきたテクニックを使ったという意味でそうなのかもしれない。ヴァージルは、トランクから始まったヴィトンというブランドの「定義が曖昧なウェアに存在価値を与えられたら」とWWDへのインタビュー(July 2, 2018 vol.2035)で答えているように、ウェアにおいて参照したのはウェアではなくカバン/トランクという原点だった。

 ジル・サンダーのクリエイティブ・ディレクターであるメイヤー夫妻のルーク・メイヤーは、シュプリームのヘッドデザイナーを8年務めた人物。彼はVOGUEのインタビューで自分たちが表現するジル・サンダーを通して表現する自分たちのクリエーションについてこう語っていた。

—歴史あるレーベルの価値をどんな風に紡ぎ出していくかというのは、近年のファッション界において注目すべきトピックですね。解体かリスペクトか、応用か解釈か……多様な戦略があると思いますが、二人の方向性は?

ルーク:間違いなく「解釈」だね。ジル・サンダーのアプローチはすでに素晴しいものであると心から思っている。だから僕たちにとっては、人々にインスピレーションを与え続けるものであるということが決定的なポイントなんだ。ジルがブランドを率いていた90年代は爆発的な影響力を持っていて、彼女のアプローチはとてもモダンだった。雑音を切り裂いて、周りの多くのものが急に古くさく見えてしまうようなパワーがあった。だからブランドの哲学、またそれを取り巻く世界観にアプローチして、それらを取り囲むSNSやマーケティング、イメージなどとの距離感を縮めようとしている。一歩ずつ深いところまで突き詰めて、これまでの全てを蔑ろにしないということが意図なんだ。
https://www.vogue.co.jp/fashion/interview/2017-11-jil-sander

 「解体かリスペクトか、応用か解釈か」。もしかすると応用が一番換骨奪胎に近いのかもしれない。デムナ・ヴァザリアはバレンシアガを、ジョン・ガリアーノはマルジェラをまったく新しいクリエーションのブランドへと変えてたが、これは解体なのか応用なのか。

 自分にとってモードの楽しみは、新しい表現とそこに潜む歴史であり、その表現が生まれる想像的、社会的、環境的必然性であり、まったく想像もできないぶっ飛んだ装いの進化でもある。ストリートがモードを侵食し、エレガンスが後退していると嘆く人もいるが、繰り返される歴史のいまとして楽しむこと、そしてなぜそのいまが生まれたのかを考えることこそがモードのおもしろさであり、創造行為の進化の仕方だと思っている。

その作品がどんな構造をしているのか?
もっというと、その作品がどんな表現の大きな流れの中に位置しているのか?
調べる必要があります。
ヒトツの表現は突然、天才のもとに空からふってくるわけではありません。
脈々と続く人間の営為の大きな流れの中にあるのです。
しっかりと先人の作品を受け取って、それを自分なりに、そして今日的に少しでも前進させて、
また次の世代にパスしなければならないのです。

 という先に引用したホンマタカシの言葉は、ファッションにも同じように響いてくる。