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BOOK REVIEW vol.17
今月の本 vol.17:フェミニズムとキャンプ
『i-D JAPAN THE FEMALE GAZE ISSUE NO.6』
『説教したがる男たち』レベッカ・ソルニット(左右社)
『反解釈(「キャンプ」についてのノート)』スーザン・ソンタグ(筑摩書房)
キャンプが改めて注目されている。
ここで言う「キャンプ」とは、もちろんアウトドアのことではなく、批評家スーザン・ソンタグの『「キャンプ」についてのノート』(ちくま学芸文庫『反解釈』に所収)で、58項目のメモ形式で言及される「キャンプ」のことだ。
ニューヨーク、メトロポリタン美術館で行われる2019年のMETガラのテーマが、「ファッションの中のキャンプ」に決まった。さらに、2017年のMETガラのテーマであったコム デ ギャルソンは、2018-19AWにおいて『「キャンプ」についてのノート』をテーマとしたコレクションを発表した。川久保がレファレンスに具体的なテキストを挙げることは非常に珍しいことだった。
「キャンプ」とは、世界を芸術現象としてみる審美主義的なひとつの見方であり、その見方の基準は美ではなく、人工もしくは様式化の度合いのことだとソンタグは58項目の1つ目を書き始める。内容に対して様式が、道徳に対して美学が価値を持ち、「不真面目なものについて真面目になることもできれば、真面目なものについて不真面目なこともできる」。「両性具有的スタイルの極地」であり、人工的で不自然なものを愛する感覚のこと。自然であるとはあるがままのことであるなら、様式/スタイルとは極めて人工的なものになる。ここまで書いても、よくわかるようでわからないところもある。ソンタグ自身が「とらえどころのない感覚」として、論文的なものではなくメモ、ノートの形式ふさわしいと考えたくらいだ。川久保玲があえてテキストそのものを挙げたのも、要約し、説明することで失われるものがあると思ったからかもしれない。
キャンプのことを頭の片隅に置きながら、『i-D JAPAN』のTHE FEMALE GAZE ISSUE特集と“女の子 その表現と自由”という特集の『装苑 NOVEMBER 2018』を見ていたら、水曜日のカンパネラのコムアイが両性具有への憧れを語り(『i-D』)、「音楽もファッションも女も、嘘が本当になる。だから楽しい」と話ながら“地底にいる海女”に姿を変えていた(『装苑』)。いまキャンプ的な人としてひとり挙げるなら、きっとコムアイだ。男性的と女性的の間を行き来しながら、美学的で様式的、真面目と不真面目が同居したコムアイというある種の人工的な存在。ヴァージニア・ウルフの「オーランドー」が長い年月をかけてたくさんの人間として生きたように、ひとつのあり方に収斂されない、複数の自分を生きるあり方。
フェミニズムエッセイ『説教したがる男たち』のなかの「ウルフの闇」で著者のレベッカ・ソルニットは、ヴァージニア・ウルフがアイデンティティを統合することを避け、複数であること、単純化できないことであろうとしたと書いている。そして、「変成し続け、限界を超え、境界を持たず、もっとたくさんのものになろうとする力」としての自己の謎にこだわったと。ソルニットはこれを“不確定性原理についてのマニフェスト”であり、“反批評のモデル”でもあると言う。分類して所有し、限定的なものにしようとする批評的な視線から解放され、“つながりや多様な意味を認め、さまざまな可能性を招き入れることによって芸術作品を豊かにすることをめざす一種の反批評”。男性によって所有され、同等の権利を与えられなかった女性たちのフェミニズム運動の説明のようでもある。こうした言葉を読み、写真家からメイク、スタイリスト、インタビュアー、そして登場人物まで、すべて女性のみで作られた『i-D』に、ヴァージニア・ウルフの影を見ていた。
フェミニズム特集号にフェミニズムの象徴のような存在であるヴァージニア・ウルフの影を見るのは、当然のことかもしれない。当然かも知れないが、コム デ ギャルソンのコレクションからMETガラを通じてスーザン・ソンタグの「キャンプ」が再び注目され、そうしたファッションの文脈とは関係のないフェミニズムエッセイ『説教したがる男たち』で、レベッカ・ソルニットが描いたウルフとソンタグの関係を読み、ウルフのアイデンティティのあり方とソンタグのキャンプの現代的な体現者としてコムアイを見つける、というのは初めての経路だった。
コムアイはスーザン・ソンタグの『「キャンプ」についてのノート』を読んでいるだろうか、ヴァージニア・ウルフを、レベッカ・ソルニットを読んでいるだろうか。何かを見る、何かを読む、誰かと対話するということは、まさにこうした世界のつながりを発見し、構築していく経験だ。『i-D』でTOGAの古田泰子が「必要なのは自分の意見と人の意見をどう擦り合わせるかとか、自分が本当にやりたいことをするために相手を説得するための実践的な学習」だと言うとき、古田は、人はそれぞれ違うのだということを考えている。差異を理解し、共通を見つけようとするのだ。
昨年古田がハニカムのインタビューで、TOGAの服について「“男性デザイナーが作る美しい女性の理想像”より醜さやコンプレックスみたいな面も前面に打ち出した表現を洋服で目指して」おり、「女性たちがTOGAの服を着ていると一般の男性は褒めてくれないけれど、ゲイの子たちからは『すごくいいね、その服!』って褒めてもらえるという話はよく耳にして」いるそうだ。醜さをあえて出し、性のあり方を超えていくということはキャンプにも通じている。
本や雑誌を読み、イメージと言葉が連想ゲームのようにどんどん繋がっていくことの心地よさに任せて、どう結論づけるか、オチをつけるかを思いつかずにここまで書いてきてしまった。ただ間違いなくこれこそが読書のよろこびだ。たったひとつの自分や世界や答えというものから自由になって、想像を広げ続けること。
そんな決定不可能性を引き受け、世界を限定、固定しない多様なあり様をイメージや言葉など様々なメディウムで繋げていくことで、男も女も、それ以外の性も、もっと自由で選択的に生きやすくやっていくはずだ。