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BOOK REVIEW vol.5

今月の本 vol.5:トラッド保存大国・日本

何も知らないからこそ沸き立つ好奇心で徹底的に学び、オリジナルを超える新たな正典となった日本のファッション話し

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AMETORA 日本がアメリカンスタイルを救った物語』デーヴィッド・マークス (DU BOOKS)

洋裁文化と日本のファッション』井上正人(青弓社)
ファッション誌をひもとく』富川淳子(北樹出版)
東京ファッションクロニクル』渡辺明日香(青幻舎)
創刊の社会史』難波功士(筑摩書房)
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ミシンを使って服をつくるということ – 戦後日本の土台をつくった時代の洋裁文化
 1951年生まれの私の母は高校を卒業後、銀行で働きながら夜間の学校に通って洋裁を勉強したそうだ。その後、自分で自分のウェディングドレスも作っている。でも、私が小さい頃に手づくりの服を着ていたかというとそんなこともない。ただ今でも穴の空いたデニムをいい感じにミシンがけしてくれたりはしている(母のやる気待ちで1年以上かかったりする)。でも母は特別おしゃれに興味があるわけではない。洋裁とファッションは別ということのようだ。
 戦後急激に進んだ日本人の洋装化はもちろん米軍の影響が大きいのだが、急な変化を成し遂げた背景には、戦後40年代後半から60年代中頃までの約20年間で形成され、消えていった洋裁文化があった。「洋裁文化とは、洋服をつくることを中心として、学校、雑誌、デザイナー、ファッションモデル、洋裁店、ファッションショーといった様々な事象から形成された、大衆を主役した生産と消費の文化のことである」として、ミシンの普及から吉本・埴谷のコム・デ・ギャルソン論争までを調べ、読み解き、日本のファッション文化形成の過程を明らかにした『洋裁文化と日本のファッション』は、現在まで続く日本のファッションにおける“日本らしさ”を可能にした社会の土台形成期こそが、洋裁文化の時代であるという。
 洋裁を教える学校は、1948年に689校だったのが52年には6748校まで急激な拡大し、和洋裁学校の学生数も49年の27万人からピーク時の60年には50万人を超えるまでになる。50年時で18歳女性の人口が約85万人の時代のことである。「装苑」をはじめ、当時出版されていた“ファッション誌”は型紙が付いており、こうした全国規模で存在する同じような学校で洋裁を学び、同じ雑誌を読み、同じ型紙を使って服を作れば、小さな単位の集合としての大量生産品を身にまとっていることと同じになる。60年代後半からレナウンや樫山など大量生産する既製品メーカーが躍進したことと、そうした個人単位の大量生産が平行して存在していたことは、その後デザイナーやモデルたちによって生み出された流行の服を、皆が同じように纏うことへの違和感のなさにつながっていったと著者の井上は記している。

既製服でオシャレができるのかという、今では信じられない問いへの挑戦
 そして70年代には既製服の時代へと移り変わり、いわゆるDCブランドが流行の顔となっていく。その代表が、日本に50〜60年代アメリカのアイビーリーグ(8つの名門私立大学の連盟)に通う大学生のファッションから生まれたアイビースタイルを、“日本のものとして”確立したVANである。現在では、アイビーよりもトム・ブラウンによって世界的に再評価されたアメトラ=アメリカントラッド(トラディショナル)という呼び名(厳密には違うが)の方が、しっくりくるかもしれない。
 VANによるアイビースタイルを、本来アメリカのものであるはずなのに“日本のものとして”と書いた。ハーバード大学東洋学部を経て慶應義塾大学大学院を卒業、日本でジャーナリストとして活動するデーヴィッド・マークスによる『AMETORA』が描くのは、遠い本物への執拗なこだわりと熱意、技術から、結果としてオリジナルを超えて、よりオーセンティックなものとなった日本のアイビー=アメトラの文化だ。学生は詰め襟、大人はスーツという選択肢しかない、男がファッションに凝るということを訝しく見られた戦後の1950年前後、VANの創業者である石津謙介は高級なオーダーではない既製服によるおしゃれを作り出そうとしていた。
 54年、石津が編集として参加した雑誌「男の服飾」が創刊される。石津は、服の教則本的なものだった「男の服飾」にメンズファッションの知識を説き、VANの服を紙面に登場させていくが思うように既製服への距離は縮まっていかなかった。そして59年、世界旅行へと旅立った石津は度々雑誌の中で見聞きしていたアイビーファッションについて直に確認すべく、アイビーリーグを訪れる。石津はそこで既製服を体にフィットするように小ぎれいに着こなす、「うわっつらな感じが全然ない」学生たちを目にする。何より気に入ったのは、長時間着用できるスタイルであり、洗濯可能なコットンやウールなどの天然素材を多用しているところだった。まだまだ貧しかった50年代の日本の学生たちに、機能的で耐久性があり、流行に左右されにくい伝統的なスタイルをベースにしたアイビーファッションは合っていると確信する。ところが、この時もうすぐ50歳を超えようとしていた石津には、若者文化を自分のものとして感じ、表現することは難しかった。
 後に服飾評論家となるくろすとしゆきはセツ・モードセミナでイラストレーターの穂積和夫と出会い、56年に「男の服飾」でアイビーを知って以来、二人はアイビー狂いとなっていく。二人は他の仲間とともにアイビーを研究し、実践する“トラディショナル・アイビー・リーガース・クラブ”を結成。ろくに情報のない時代にマニアックな知識を蓄えていった。そして石津が世界旅行に旅立った59年、トラディショナル・アイビー・リーガースは「男の服飾」に登場する。当時「男の服飾」にいた石津謙介の息子祥介は、61年に編集部を辞めVANに入ることになっていた。本物を見て日本での展開を考えていた謙介と祥介は日本一のアイビー通くろすを誘い、日本で完璧なアイビーのコピーを展開していこうとしていた。ブルックス・ブラザーズのジャケットを解体して研究し、どうにもうまく作れないアイテムは、GIたちが置いていった古着を漁り、調べたという。63年「メンズクラブ」と名前を変えた「男の服飾」は、石津謙介・祥介親子、くろす、穂積を中心にVAN格好の宣伝媒体となり、くろすは“街のアイビー・リーガース”というストリートスナップの元祖とも言える路上スナップ企画を始め、Q&Aのコーナーでははったり混じりで正統派アイビーとはかくあるべしと説き続けるなど、様々な普及企画を展開していく。信者の如くVANのメンバーたちには、憧れる若者たちにわかりやすくアイビーのルールを伝えるべく、“べし”と“べからず”といった調子で伝えることとし、以下のように考えた。

 薬を買うと説明書がついてきます。薬には正しいのみ方というのものがあり、用い方によっては逆効果をまねくかも知れないからです。おしゃれにもそれと同じように、無視してはいけないルールがあるのです。そして、このルール、つまり、貴方を本格派にするための正しい服装常識を身につけるには、アイビーから入ってゆくのがいちばんの早道なのです。

 高価なVANの服はなかなか広く浸透していかなかったが、64年、大橋歩によるアイビースタイルの若者を描いたイラストが表紙の雑誌「平凡パンチ」が発売になると、一気にその認知は拡大していき、雑誌とともに若者の生態を変えていった。64年に海外渡航が自由化され、祥介やくろすはアイビーリーグの各大学を撮影し、映画にしようと企てる。65年、彼らは各大学を車で移動しながらムービーとスチールの撮影を行い、伝説の写真集『TAKE IVY』を完成させた。以後、この写真集はプレッピースタイルの正典となる。この旅に参加した面々は、大学が古い歴史的な建築物をかたくなに守る姿や、外観を守りながら内装をモダンに変え続ける街並みを目にしたことで、謙介がつねづね口にしていた“アイビーは単に最新の流行を追うことではなく、伝統に対する尊敬の念をあらわ”すものであるということに気づいていった。
 こうしてVANはアイビーを細部に渡って研究し、実践し、グルとして若い人々におしゃれの流儀を叩き込んでいった。本場のアメリカが無意識だったものをすくい取り、オリジナルを守りながら、超えていったVANとアイビーのあり方は、“以後50年間、アメリカのファッションを輸入し、消費し、修正していくパターンが、このスタイルによって決定づけられたこと”が何より重要だと著者は主張する。

コピーとしてのVAN的アイビーから、本物のアメリカの“もの”へ
 その後、「POPEYE」を創刊する編集者の木滑良久と石川次郎は、『Whole earth catalogue』を参考にし、3000種類以上のメイド・イン・アメリカのアイテムを紹介した「Made in U.S.A. カタログ」(75年)でカタログ誌というジャンルを作り上げる。取り上げた無骨で機能的なアウトドアギアは“ヘビーデューティー”と呼ばれ、70年代後半メンズウェアに中心的なファッションとなった。それは、コピーであり“ニセモノ”のVAN式アイビーではなく、本物のアメリカそのものを味わうものであった。そして翌76年に「POPEYE」が創刊。掲載商品に対して価格、販売しているお店の住所、電話番号を掲載し、カタログ雑誌の決定版となっていく。
 お金持ちのアイビーに対抗する存在としての新宿にたむろしたフーテンとヒッピーは、アイビーの本場であるアメリカ由来のジーパンに身を包んでいた。そして反アメリカだった学生運動の若者たちも同様に。しかし、それによって日本産のジーパンは一気に広がり、「Made in U.S.A. カタログ」の表紙にも載っていたリーバイス501のヴィンテージブームの頃には、オリジナル501と寸分たがわぬものを作ろうとした結果、それ以上のものを日本のデニム産業は生み出すほどに深化していった。66だ、ビッグEだ、革パッチだというマニアックな情報が駆け巡っていた時代に中学生で、ファッションに興味を持ち始めた自分にとっては、そうした日本のブランドの本当の価値はまったく気づいていなかった。少しでもヴィンテージ風にしたくて、新品の501をはいたまま匍匐前進し、風呂に入り、軽石で擦り、どれだけ洗わずにはき続けられるかをチャレンジし続けた当時が懐かしい。たしかにがんばっていたけれど、後悔した記憶しかない。情けない。

ニセモノがホンモノを超えることで、ホンモノが本物になる
 日本ならではの風土から生まれた文化としてのファッションではなく、輸入し、解体して研究し、日本の技術で組み直し、洗練させていく。『TAKE IVY』より遡る一次資料のないアメリカでは日本版のアメトラが着られるまでに到る。輸入物であるスタイルは、日本のライフスタイルとは結びつかない常に“お遊びの表現形式”であり、“正統性に対する不安”によって駆り立てられた創造性によって20世紀の日本のファッションが成り立ってきたという著者の読みはするどい。洋裁学校から発展した日本の専門学校によるファッション教育はいくたの優れたデザイナーを輩出したが、社会と深く繋がるファッションを生み出し、定着してきたものは少なそうだ。著者のデーヴィッドも言うように、そうしたものは20世紀的なことであり、いま活躍する日本のデザイナーはかつてとは違う、不安からではない歴史意識と創造性によってものづくりをしていると思う。
 そして、もはや着るものにおけるインフラレベルにまでなったという意味において、かつて父や経営するVANショップを継いだ柳井正によるユニクロは、社会と密接に繋がっているとも言えるのかもしれない。国内の縫製産業はどんどん縮小していっている。洋裁文化を生きた世代が仕事を失うなか、全国の個人の縫製職人に消費者がほしいものを直接作ってもらう「nutte(ヌッテ)」のようなサービスも出てきている。それは母が洋裁をやっていたからオシャレ好きというのではなかったように、ファッションという括りでどう語るかはまた違う話しだけれど。